「ヒーロー」

23時台だったので、終電を意識し小走りでヒールをかけ鳴らす。

 

小雨の中、イソイソと、人の間を蛇行する。中肉中背スーツ男とコンサバ女のセットがゆったりと歩いている脇を掻い潜る。

 

「ふざけんなよぉぉぉ」

 

突如、

ヒステリックな老人の喚き声が交差点左方からつん裂く。

 

その文句を逐一覚えてはいないが、被害者意識の強い、情緒不安定という感じの涙声をキンキンに巻き散らしながら、若い女性を捕らえるかのごとく羽交い締め、肩を激しく揺さぶっている。

 

奇妙な組み合わせだなあ。

 

女性は困ったような、恐怖に怯えているようななんとも言えぬ顔で抵抗せずに揺れていた。

水商売系とかではない、至って地味な女性だ。

 

暴漢による犯罪行為にしか見えなかった。

 

しかし、終電に対する意識と、観衆の様を見たことによる心理的作用が、私の蛇行の速度をむしろ加速させる。

 

街を歩く人はというと、ギョッとした大きな目玉を皆で揃えて凝視するものの、歩みを止める人はいないのだった。それらの人間からは恐怖、ではなく、驚愕という面持ちが窺えた。

 

そしてカップルの女なんかは、「アタマおかしいんじゃない〜」「やばくない?笑」というような目、口元はニヤリと笑みを作っていて、男に対して微笑みかけていたりする。

 

みんな白い目、むしろ半笑いってところか。

 

(某作家さんの連載中小説のアレが、どうしても脳内でリンクした)

 

「大丈夫なのかなあ・・・」そう思いながら駅へ急いだ。

 

丁度最寄りに停車する各駅停車が来た。ラッキーだ。

 

早速乗る。当然のごとく満員電車で、まあまあ苦しいが、どうにか手すりに掴まれた。

 

次の駅が難所だ。

予想はむしろ外れなのではないかというほどに体感200%以上の乗車率。

 

身体中にかかってはいけない圧力がギューーーっとかかり、身動きがとれない。

あまりの辛さに、パニック障害(そのような診断はないが)の発作が出てしまうかもしれないという凄まじい不安がメンタルを侵食するレベルだった。

 

そんな中、

背後から、でちゃいけないものがでそう・・やばいよ・・やばい・・・

という、やばい声が聞こえてきた。もう、既に異臭が漂っていた。

袋とかないの!?と相談の声が聞こえてくる。

 

今背後で、何が起こっているかなんて、ごく簡単な推理で導き出せた。

 

同時に、背後にいる何者かが、溢れ始めた吐瀉物を撒き散らす寸前かもしれないという、悍ましい悪寒が走るまでは、ホンの数秒だった。

 

私は本屋のビニール袋を取り出し、袋とかないの!?のサラリーマンに渡す。感謝された。

 

次の駅で、その集団は降りたようだ。

ポジションを変えようと少し歩いたら足元の液体で少し滑った。

 

目の前で吊革につかまっているヘッドフォンを被った男性の、黒いダウンジャンバーの背面は、うっすらと白いカスがついていて、濡れていた。

 

自分の背中から漂う海苔と酸味臭が鼻腔を激しく攻撃してくるが、私はめげている場合ではない。

 

海苔を食ったのだろう。

 

海苔巻きか?寿司の可能性濃厚だよな、そんな下品なことを考えているとちょっぴり込み上げてくるが、貰い体質ではないのでそこは大丈夫だった。ただ臭いという苦痛は無視ができないんだなあ。トホホ。

 

そもそも自分の上腕部に何かがついているのが既に目視できていた。

 

電車のシートを汚して気分が悪くなるのがイヤなので、座るのが大好きな私が珍しくずっと突っ立っていた。

 

最寄りで下車。 無心で闊歩した。

 

広い道路には自動車が緩やかに走っていた。

脇の歩道を歩いていると、

 

ん?何やら落ちている。

 

それはどうやら折財布だった。一万円札が下品にはみ出ている。

 

しかし徒歩で、ヒールで、ゲロ臭にまみれて疲労困憊だった私は見ないことにして、何事もなかったかの如く通り過ぎてしまった。

 

今思えば駅前交番に電話してあげても良かったかもしれないが、とにかく面倒ごとに巻き込まれたくなかった。

 

なんていうか、色んなことがあるもんだ。

 

ヒーローにはなれないなーとつくづく思う。